今日の読み物
今回は子供に何かしてあげたいという思いからこの本を読みました。
この本を読んでやろうと決めたこと。
やめていた図書館を再度利用することです。
ではまとめます。
●子どもの可能性は無限大で、どんな子でも能力を伸ばすことができるということ。
●地頭の基礎が作られる10歳くらいまでは、「本」をとにかく与えてほしい。
「読書」にかける時間をたっぷり作ってあげてほしい。
●自分で字を読めるようになる前は親が主に絵本を「読み聞かせ」することになる。これはもう、早ければ早いほうがいい。
●10歳くらいまでの子どもの頭はまだ「モワッ」としている。要するに成長過程のさなかなので、自分自身のことはまだよくわからない。その「モワッ」とした頭に、厳しい勉強だけを課すのは、植物に肥料をやり過ぎるようなもの。
●ある程度の年齢になっても、子どもは本を読んでもらうことを楽しむ。
「もう大きくなったから」とやめることはない。
●本によって、知らないことを知ることができる。さらに好奇心を刺激され、どんどん知識を深めていける。いろいろな物の考え方を学び、思考力をきたえられる。こうした訓練を積んだ子が、大人になってから最高するのは自明のこと。
●一音一音ハッキリ読むことで、日本語の一音一音に大切な意味があることが、脳への刺激となって伝わる。
●読み聞かせに「今さら」ということはない。小学生からでも、読み聞かせによって脳はガラリと変わる。
●文章を変えて読まない。
「〜でした」という語尾を「〜なんだって」などと変えてみたり、ちょっと難しそうな言葉を簡単な言葉に言い換えてみたりといったことはしない。
●仰向けになって絵本を広げると、読み聞かせてもらいながら子どもの眼前には天井いっぱいに物語の中の世界が広がる。読書の醍醐味はまさにそこ。
●親が読み聞かせを行い、子どもに日本語了解能力が身についていけば、子どもは自然に自分で本を読むようになる。
成長とともに、自然にミルクを飲まなくなり、オムツが外れるのと同じ。
●大敵となるのが、テレビやゲーム、スマホ。これはできるだけ、物理的にも心理的にも子どもから遠ざけたいもの。
●現代において子育てしているなかで、子どもにテレビを見せるなと言っても難しい。親の方がテレビやゲーム、スマホに夢中ということもある。(←これ自分のことだ、、、)
しかし、親もすべて遮断する必要もなく、できるだけ子どもの前ではやらないようにすればいい。これも芝居。
●手がふさがって読み聞かせができないときは、「○○ちゃん、お母さんに読んで聞かせて」という手がある。
●1日の中で「本を読む時間」を設定する。1番良いのは寝る前。
お母さんに添い寝してもらい、お母さんが読み聞かせをする声を聞きながら、眠りに落ちるというのが、子どもの頭を良くするだけでなく、情操の安定も図る。
(←うちの子は読み聞かせに夢中になり過ぎて読んでる途中で寝落ちしたことないな〜。寝てくれたら助かるのに笑)
●本は惜しまずどんどん買おう。
本なら買ってもらえると思わせる。
●リビングに絵本コーナーを設け、図書館から借りてきた本を常に20冊くらい並べ、毎晩その絵本コーナーの前で、「今日はどれがいい?」と選ばせる。
子どもが手にとった2.3冊を持って寝室へ向かうということを毎日やってみる。
(←これ面白いからやろうと思ってる。
20冊は借りれないけど、、、)
●親の趣味に合わないものでも、いったんは許容するというスタンス
●5.6歳になると、黙読で本を読む子も出てくる。できるだけ自分で音読する期間が長くなるように引っ張る。
音読を促すのために欠かさないのが親の聞く姿勢。
家事の片手間ではなく、そばでじっくり聞いてあげる。(←これは忍耐力が求められるな〜...)
間違いを指摘する必要もない。
音読の楽しさを教えることの方が先。
つっかえつっかえで子どもが読めたら、とにかく褒めまくる。
「もうお母さんより上手ね」と、自信満々にさせてあげる。
●子どもが関心を見せた分野については図鑑を購入する。
新たな学びがたくさんありました。
もっと子どもの国語力をあげてあげるためにも、自分のしょうもないことに費やしている時間を子どもたちに捧げようと思いました。
読書って素晴らしい!
今日の読み物
養老孟司先生の本を初めて読んだ。
昆虫好きの賢いおじさん、という情報しか私の中ではなかったが、読み終えて自分の固執した考えがかなり覆された。
読み終えて実行しようと決めたことは、「子供と毎日10分散歩する」
ここに行き着いた。
他人とは直角に交わる、というのも良かった。
1番無意味なのは正反対の方向を向いているときで、同じ向きだと長いほうで済んでしまうから面白みがないという話。
「仕事はお預かりしたものだ」という意識をもつ。
これは自分の中に無かった考え方で、世間のほうが仕事の在り方を要求するので
あり、仕事は自分のためにあるわけではない。だから「自分らしく」とかは仕事では必要ないわけで自分を曲げざるを得ないのが仕事なのだ、ということ。
「分」がわからなくなってしまったから怒る人が多い。
「分相応」でいなくてはいけなくて、自分のできること、身の回りをきちんとすることが大切。
→みんなが乗ってる車とか見てても「それ分相応なの?軽自動車で十分なんじゃない?」って思える人がよくいることを思い出した。
「問題なのは少子化ではなくて少親化」
子供が減ったのではなくて、親になりたい人が減ってしまっただけのこと。
要は手間をかけたがらない人が増えた。
手間を省いたら成り立たないものがある。
生き物の面倒をみることが典型。
→まあ福祉の制度のことも問題あるんだろうけど。
子供はご飯と味噌汁食べさせて、外で好きなだけ遊ばせておけば大抵普通に育つし、みんな考え過ぎなんじゃないの〜とは思ってるよ。
お金があるかないかなんて子供には関係ないと思います。
彼らはご飯と遊びさえあれば大丈夫な方々だよね。
「他責的な人」他人を責める傾向が強い人が増えている。
→これは自分だな、と思った。。。
「仕方がない」という感覚がないのが今の人、特に都会の人らしい。
「仕方がない、と言う奴は敗者だ」という暗黙の教育を受けている。
都会的な考えでは「仕方がない」というのは言ってはいけない言葉になってしまっていて逆に「言うべきこと」とされたのが権利の主張。
「やってもらって当然」「言って当然」という物言いである。
それを用意しろと要求することが「勝ち」という考え、、、
もっと「仕方がない」と考えることを身につけるべきで「仕方がない」と言うべき。
→私も「仕方ないね」と言える人間になりたい。
ちょっと何かに関心を持って細かいところを見るようになれば人生や世界は面白くて仕方のないところ。
概念だけで捉えて、わざわざ「同じ」にしてしまうのはつまらない。
→隣近所の人やママ友のことなんかよりも、もっと面白いことあるよね。
子供を観察してるだけでも笑えるもんね。
なんでこんな短い距離を全力で走るんだろう?とか(キッチンからトイレまでとか)
身体を自分でコントロール、管理しないといけないという感覚が現代人は非常に弱い。
身体のしつけが甘くなっているから、必然的にマナーも悪くなっていくのである。
→姿勢を正してる人ってそうそういないよね。
私もおばさんだし、マナーを守れるステキなBBAになるためには身体をしつけなくては。
金というのは物体ではなくて、それを使う権利のこと。
不信は金、コストがかかるもの。
人を信用するのが1番安い。結果的に得をする道。
お金自体を増やそうというのは資本主義の原理ですごく大切なことだと皆思わなくてはいけないように感じているが、普通の人はあまり立ち入らないほうがよい。
老後資金より、老後体力を考えろということ。
でもきちんと払うべきものは払ったほうがいい。それがコスト。
→なるほど、なるほど。
セカオピしまくっても時間とお金の無駄なことが多いよね。
NHKも税金も払いたくないけど、今は払わなくてはいけない、と言われてるものだから仕方なく払おうね。
最悪の想定をすることを、最悪の想定を望んでいることとごっちゃにしてしまうのは間違い。
→京セラの稲盛さんも何か事を起こすときは最悪のことまで想定して挑む、と言ってたなー、そしたら不安なく取り組めるって。
計画立てたり、想定して考えるのってめんどくさいけど、それをきちんとできる人がうまいことやる人なんだろうね。
私ももっと考えよう。
普通に暮らしていくには、当然、みんなで決めた約束事を守っていくということでは良いが、何かおかしいぞというときの最期の判断基準をそちらの約束事に置くのか、もっと人間として生き物としての感覚を重視するのか、そこに常に注意して考えたほうがいい。
普通に社会で暮らすならば、約束事は守っておけばいい。でもどこかで「約束事にすぎない」と思っておいたほうが気は楽なはず。
→とりあえず約束事は守ろうね。
ここは!!という時には自分の責任で考えて事を起こそう。
約束は破るためにあるとか誰か言ってたな。。。
あながち間違いじゃないね。明日には当たり前なようにある職場も無いかもね。
いまある組織、会社はその「いないほうがいい」人を含めてここにある。
皆が平等というのはいいことばかりでもない。
→たしかにな〜、クソみたいな奴がいてそいつの話題で盛り上がったりしてる時間はみんな楽しそうだもんね。
その人がいなくなったら次、話題もちきりにされるのは自分かもしれないしね。
何でもスパッと決めれば現実がそちらについてくるという勘違い。
ルール化しても、意味がないということがある。
制度をいじれば何とかなると思ってる人がいる。
何か不具合があるときに、とにかく制度を変えなくてはという奴が出てくる。
それは悪いことではないが、その動きが加速してしまうと、ひたすら制度を変えるようになってしまう。
決まりを作るのが好きな人はとにかく現実と決まりをくっつけたくて仕方がない。
→考えるのが面倒くさくてスパッと決めてしまおうとする自分に反省。。。
ボケが心配なら、とにかく「外へ出ろ」
頭の中で引きこもってしまうことが1番危ない。
鬱々と考えることが、アルツハイマーやボケ、そして鬱を生み出す。
体を動かさずに頭だけ使うということは、脳への外部からの入力と出力が落ちてしまっているということ。
→子供と外に出て散歩、だな。
日本人にはかかりつけの医者というのが最近ない。本当はそれが必要。
もう一つ持たなくてはいけないのがかかりつけの弁護士。
→弁護士には交通事故で一度お世話になったけどカッコよかったな〜
余命の告知が一般化したのは、ここ10年か20年の話。
医療訴訟が増えてしまったから。
→へえ〜、そうなんだ。確かに小さい頃はみんな本人に隠そうとしてたもんな。
でもその医者の優しさを逆手にとってお金を取ろうとする奴がいるんだって!
優しいほうが負けてしまう世の中、、、
自分の死というのはどうせ客観的に見ることはできないのだから考えても無駄である。
じいさんはニコニコ笑っていれば良い。
→うん、それがいい!
知恵が欲しいときは尋ねて行くからさ、ガミガミとしゃしゃり出てくるとダメよー。
今日の読み物
今日は本を2冊読んだ。
この2冊を読んで新しく思いついたことがあるから、それをブログに書きとめておこう。
➀ブログを書く
➁買い物に行くのをやめる
(週一の生協とバイト先で足りないも
のは買って帰る、あとは夫に仕事の
帰りにどうしても必要な物は買って
きてもらう)
➂子供に時間とお金を投資する
➃ひたすら読書する
ブログは自分のアウトプットのため
買い物は時間と金の節約のため
子供の未来に自分は投資したいため
読書は素晴らしいため
以上である。
ブログはじめました🍜
新年も明けて、満足できない自分を新たにしたいという思いから、気持ちをアウトプットしたくブログでそれを実現することにした。
これに行き着いたのは堀江貴文さんの本を読んだからだ。
私はハマると止まらない性格で、幕内秀夫と堀江貴文にどハマりしている。
そんな堀江様が「ブログ執筆は問題の消火作業」なんて仰せになるのだからやらないわけにはいかないのだ。
私のような育児とパートで毎日が過ぎていく者にとって、自分の思いをきちんと表現する場は無いので、このブログで表現していくことで、普段の生活のあらゆる場でも自分の思いをきちんと表現できる人間になりたいというのが、今回私がブログを書く最大の目的である。
とりあえず1日1記事書いていこう。